絶賛不安定

不安定と一緒に、生きていく

2023年と2024年

今年も結局、年が明ける。

 

これまでも色々なことが身の回りに起きながら、起こしながら、

進み、止まり、後退し、進んできた。

 

2023年は大きな悲しみと、大きな喜びと、小さくない不安が生まれた一年だった。

 

かねてより、僕はイベント制作会社に勤めていた。

会社は悪く言えば、昭和の香りが残り、

長い労働時間と、短い睡眠時間との間に挟まれ、

日々、淡々と仕事をしていた。

 

社内では、社長に気に入られていたし、

給与もこの社会人経歴にしてみれば、

比較的多めにもらっている方だったと思う。

 

仕事は一人で回せるようにはなってきていて、

その反面、心は置き去りになっていった。

 

プロジェクトをとりまとめ、牽引していく役目だった。

クライアントと協力会社をまとめながら、イベントの実現に向けて、

話を進めていく役割だった。

 

けれどそれは、方々の事情論を聞いて、悩んで、突破口を模索していく、

とにかく調整に次ぐ、調整に明け暮れる、とてもつまらない仕事だった。

 

まだ経験も十分に得ていない自分には、「どうしたいか」は二の次で、

とにかく予定通りに物事を進めるのに一杯一杯だった。

自分はプロジェクトの舵取り役として「どうしたいか」を持たなければならなかった。

けれど、どうしたいかもなにも、どうでもよかった。

 

ある程度リズムを掴んできた自分と、

目の前のことに太刀打ちできない自分のはざまに立たされた僕は、

もう仕事がどうでもよくなった。

 

誰のために自分は頑張っているのか。

頭ではわかっている。もちろんクライアントのためだ。

でも、そのために頑張ってもやりがいはなく、

いつしか無事故で仕事を終えることだけを考えるようになり、

プラスアルファを考えたり、前向きに取り組むことは無くなったと思う。

 

結局、次は決まっていないながらも、

全てが嫌になり、退職することにした。

 

イベントを作ることはとても楽しいと思っていたけれど、

僕が社会人として最初に働いた場所はそうではなかった。

 

最後の方は、気持ちに余裕がなくなり、

周囲に(ときにはクライアントにも)当たるようになり、

勤め先を去ることにした。

 

この一連の流れはとても苦しく、

とても辛く、とても悲しかった。

 

 

そんな黒に近いグレーにまみれた毎日の中に、

一筋にして、とても強烈な希望が差し込んだ。

 

自分にパートナーができたのだ。

 

自身の初めての異性のパートナー。

 

自分と気が合ったり、本当に心を許すことができるような人など、

生涯でできることはないと思い、ほぼ諦めていた僕にとっては、

奇跡に近いようなことだった。

 

彼女は、前職の同僚だった。

自分が社会人2年目のころに中途で入ったきた彼女だ。

 

当時から、なにか自分の考え方や性格と合う人のような気がしていた。

 

気にはなっていたものの、本当に自分はこの人と付き合いたいのか確信を持つことができなかったから、何回も何回も心の中で確かめていた。

 

そうして、気持ちを伝えられないうちに、

他の同僚から、どうやら彼女が、他の同僚と付き合っているらしいとの噂を耳に入れた。

 

途端に、とても嫌な気持ちになり、焦燥感を覚えた。

と、同時に、自分はこの人なのだという確信も、

思わぬかたちで得ることができた。

 

まもなくして、彼女に思いを打ち明けた。

 

一度は(突然伝えたということもあり)保留になり、

僕の希望は途絶えたのだとため息をついたが、

ほどなくしてOKの返事をもらうことができた。

 

以降、彼女には毎日、支えてもらっている。

 

今までは、何事も一人で戦ってきた。

 

浪人生活での心細さや、周りに置いていかれる悲しさ。

満足いかない現状への悔しさ、憤り。

異性に好かれないことへのある種の諦めと切なさと寂しさ。

 

一人で生きていく強さこそが正義だと思ったので、

そのために心を常に攻撃的にしながら、

世界に存在してきた。

 

けれど、彼女は自分を受け入れてくれる。

 

自分を受け入れてくれるひとがいることは、

とても、なんというか、素晴らしいことだと思う。

 

彼女へのリスペクトの気持ちはずっと持ち続けたいし、

持ち続けるべきだと思う。

 

仕事を失うという小さくない代償を払った2023年だけれども、

それと引き換えに、かけがえのないものを得た2023年でもあった。

 

ここからは2024年の話。

 

現在も仕事がない状況が続いている。

 

毎日、心の平穏を保つのがとても難しい。

こんなにも自分は社会に必要とされないのかと、正直、驚きを隠せない。

 

前職でも、毎日一心不乱に、納得できないことも、

噛み殺して積み重ねてきた。苦しい思いをしても耐えてきた。

現実に、そこら辺の同年代には負けないくらいにやってきた自負はある。

のに、転職活動は「不採用」の三文字の応酬である。

 

僕は、まだ経験のしたことのない業種に行きたいと思っている。

 

それは当然で、こんな若干27歳が、

このまま一つの業界に居続けていいわけがないのだ。

変化し続けなければいけない。自分の引き出しを増やさなければいけない。

 

なのに、未経験なだけで社会からは不要とされる。

この社会はひとたび特定の職種に就いたら最後、

簡単には他に移ることができない。

 

1社目にブラック企業に就いたら尚のこと、

転職活動に充てる時間を確保するために、

一度会社を辞めなければならず、

しかも、その(一般的にいうと)空白の時間が、

会社の人間からすると、奇妙に見えるようで、

仲間として迎え入れてもらうことはない。

 

悔しくてたまらない。

 

怖くてたまらない。

 

無職の現状も大概だが、

この状況がいつまで続くのかわからないことが、

怖くて、不安で、毎日怯えている。

 

入れる会社に入ればいいと思う。

元々いた業界に戻ればいいと思う。

 

でも、それでは「引き出しを増やす」にはならないし、

ブラック体質の環境から脱することができない。

 

1発目を本当に間違えたなと思っている。

 

社会から仲間外れにされているこの状況は、

本当に苦しい。

2023-11-27

にしても、うまく行かなすぎる人生だなと思う。

 

今回は、ただただいま思い浮かぶことを、

特に頭の中でいじることもなく、一歩通行で書き連ねたいと思い、

キーボードを叩いている。

 

とにかく真っ黒な会社にいたもので、

いつしか心理的な余裕がなくなり、

自分のペースを掴めなくなったので、

潰れてしまう前にとにかく退職した。

 

退職して3ヶ月が経ち、

いまはすでに仕事がしたいな、

と毎日、毎秒思っている。

 

その理由には、

やはり財政的な理由があり、

それと、もう一つには自己効力感というか、

貢献してるなぁという感じがなくて、

自分の思う、自分の存在感を示せていないことが、

苦痛に感じる。

 

転職活動も本腰を入れてもう2ヶ月弱くらいか。

 

それなりに自分の中の興味が反応するものを見つけて、

応募しては、書類かもしくは、一次面接くらいで落ちる、

みたいな日々をずーっと繰り返して、辟易としている。

 

社会人として振る舞っていた2年半は、

やめたくなる隙もないほど働き、

時間も費やしたし、心もすり減らした。

 

2年半だけど、多分マジで深夜(というか早朝のときも)まで働いたし、

休日返上もあったしで、

マジで5年分くらいは働いたと思う。

 

だから、そのぶん経験したことも少なからず多いかなと、

自負はしてる。

 

なので、

次の場所ではそれなりのバリューは提供できるだろうなあ、

と思って、正直すぐどっかに就職できるかなぁと思っているなかで、

現在無職(というかニート)。

 

あーあ、なんだよー。

 

自分が提供できる価値は絶対あるはず(そう信じてる)だけど、

でもそれを誰からも求められなくて、

なんのために今日を生きるのかわからないな、

と思いながら目を覚ます日々が始まっております。

 

2年半ぶり2度目ですな。

就活に辟易としていた大学3年生ぶりだ。久しぶり。

 

ほんと、親が敷いてくれたレールを走るのを終えた高校卒業後から、

ぜんっぜんうまくいかないなぁ〜。

 

ぜんぜんうまくいかない。

 

こーれもう、どうすんの?この人生?って感じ。

 

ゲームとかでよくある、

「リタイヤ」の選択肢があったら、もうとっくに選んでるよなー。

 

あんまり誰からも読まれないこれだからゲスいことも書くけどさ、

絶対、日々生活する中で見るアイツより何倍も仕事できるはずなんだけどなぁ。

他責にして矢印が外に向いてるときは大概ダメな時だけれど、

そういうことすら思えてくる。

 

というか、

日々思うこの感情はもう論破しようと思えば、

すぐできちゃう。

 

だって、そんなにひとの役に立ちたきゃバイトすりゃいいじゃん。

ボランティアでもすりゃいいじゃん。

 

お金稼ぎたきゃ、どこでも片っ端から応募して、

わけわからんとこの社員になって働けばいいじゃん。

 

なんか勉強して、新しいスキル磨けばいいじゃん。

 

そうだよ、そうなんだよな。

なんでそうしないの?

 

、、、なんでだろ。

 

結局は身も蓋もないことを嘆いてるだけに過ぎないことを、

思い知らされる。

 

でも、やる気おきないんだよ。

 

やる気というか、納得できないんだよ。

 

大抵のことはなんでもできる時代だけど、

でも、そんな時代に生きている俺は、

なんでもできるわけじゃない。

 

「できる」を因数分解したら、

「技能的にできる」と「やろうと思える」の掛け合わせだと思う。

いまさらだけど。

 

で、後者の要素が、

前者の要素を補完したり、増強したりすることもある。

 

そんで、後者がほんとに難しい。

「やろうと思える」ゲージに影響を与える要素は非常に複雑だし、

勘違いもあるし、希望的観測が影響を与えるし、

なんかもうとにかく変数すぎるにもほどがあるほど、流動的過ぎ、潜在的過ぎ、姿形が無さ過ぎ。扱いにくいったらありゃしない。

 

あぁ、だから、そうだね、

「弊社でやりたいことってなんですか?」って聞かれんだね。

 

ねぇみんなどうなの?そんなにやりたいことあんの?

 

いまの期間、いろんな人に仕事観とか聞いてたりもするけどさ、

「この仕事も深夜早朝までやることもあるよ。そんな状況でも耐えられるくらいの動機ある?」って聞かれて、ねぇそんなのあるわけなくない???

 

自分の生活領域が侵されても平気でいられるくらいのモチベがある仕事なんてあるのか?

 

自分は仮に睡眠時間が削られます、休みの日にも仕事のことを考えなくちゃいけません、

なんて仕事あったら、すぐに顧客、クライアント、お客さんが憎くなって恨むと思うわ。

 

そこまでしてやりたい仕事なんて、おそらくきっとないのですが。

 

でもなぜか、みんなうまいこと掻い潜って、折り合いつけて、

我慢して、その仕事やってんでしょ?その能力どこで身につけたんだよ。

 

もう好きなことを仕事にしたくもないし、

得意なことを仕事にしなくてもいいから、

自分が納得してやれる仕事がしたいよ。

 

というかもう仕事じゃなくてもいいよ。

自分が納得できる生活がしたいよ。いまのところ全部に納得できない。

 

不本意に一日が始まってしまう朝、

不本意な結果にしかならない採用結果のメール、

パートナーのことがとても好きなのに、

理想的に喜ばせてあげられないこの不本意な状況、

親の脛をかじるしかない不本意な財政状況。

 

こんな状況になってるのは自分のせいだけど、

自分だけのせいにするには、厳し過ぎないか?

 

だって、「これを極めていくんだ!」っていう興味?向上心?好奇心?は、

努力をすれば得られたのか?

 

「まあ理想的ではないけど、こんなもんでいいか」ってなれるその妥協心は、

努力をすれば培えたのか?

 

いずれもない自分は、いつのどこの努力が足りなかったんだ?

 

別に堕落したっていいんだよ、自分が「もう俺なんてしょうがねぇか」って納得できんなら、

必ずしも仕事したい、世の中に認められたい、とか、

もうそんなんじゃない。

 

別に誰からも褒められないような状態でもいいよ、

自分が「うんうんそれでいいよ」って納得さえしてくれれば。

 

でも、そうならないんだよ、どうしても。

 

ほぼほぼ不本意

 

活躍してる自分を夢見た数十年後の姿が、

こんなことをほざいているこの現状も不本意

 

もう、生きててほぼほぼ不本意

 

あーあ、とことんうまくいかねぇな。

画逸的

このブログを開設した時、
まさか27歳になっても、ここでキーボードを叩くとは思ってもみなかった。

 

「絶賛不安定」。
このブログのタイトルだが、我ながら上手く表現した場所だなと思った。

 

ここへは自分の心が不安定になったときに、訪れることにしている。
「している」というよりも、ここに、つい、顔を出したくなる。の方が正しいか。

 

前回、更新した時からここまでで、何個か周囲に変化があった。

 

まず、

小学生のときから高校まで、ずっと一緒だった友達がついに婚姻届を出した。

 

いつかは来ることだったけど、そうか。。。
ここできたか。。。

 

何様のつもりかは自分でもわからないが、
素直に「すげー」という感情と、
少しだけの複雑な気持ちが入り混じる。

 

ニューヨークで自由の女神、実物を始めて見たときの感情に、
案外、近いかもしれない。

 

へー、これがその!かの有名な!
やっぱりすごいですねー!壮大ですねー!
でも意外とこんなものなんですねー。

。。。

 

 

人はなんのために、結婚するのだろう?
(またはじまった。。。)
(いまだにメタ発言ですか。)

 

でも、本気で分からないかもしれない。
世間的なステータス?さすがにそんな凡なことじゃないんだろうな。

 

今後はきっと、
そのうち子供が出来て、だんだん予定が合わなくなってきて、
そして少しずつ疎遠になってくるのだろうか。

 

「人は型にはまってゆく」。

 

2年ちょっと、社会を経験してみて、
周りの人たちを見て、自分を見て、そう思った。

 

けれど、その「型」というのは、
先代より代々形成されてきたものだけあって、
特段悪いものではなさそう。

 

旅館に行って、
「わざわざあんな寒い外に出て、お湯に浸かるなんて、ただのバカだよ。」
と、いくら壁で囲われた環境で騒いだところで、
露天風呂は気持ちがいい。

 

しかも、その露天風呂だって、
誰でも行けるものではなく、
なかなかに頑張らないとたどり着けない。

 

僕の目には社会がそんな感じで映っている。

 

なら、かくいう自分も、
周りと同じ、ひたすらに頑張って、
露天風呂に浸かり、眼前に広がる富士山を見て、
「あぁ、ごくらく。」なんて言ってればいいのだが、
どこかそれに抵抗感を感じる自分がいる。

 

27年目にして、僕は何を言っているのだろう。
きっと、こんなことを未だに考えている人なんていない。

 

着々と進んでいく周りと、
立ち止まったり、ときに、後退する自分。

 

 

 

かねてより、
ある日、歩道を塞がれたことを挙げて、
「恋人が出来るとバカになるから、歩道を2人横並びで歩いて、かつ、歩行速度が遅くなるので邪魔。」
といっていた。

 

そんな僕にも最近、なぜ歩行速度が遅くなるかがわかってきた。

 

結局、みんなが「楽しい」「嬉しい」「幸せ」と言っていることは、
実際やってみると楽しいし、嬉しいし、幸せなんだ。

 

ここでは、
こんなに社会に一石を投じている(気分になっている)僕も、
結局は、どうにか「型」にはめていくのだろうな。

 

別にいいけど、そんなものなんだな。

不変

更新してなさすぎて、ログイン状態が解かれていたのは勿論のこと、

ID/パスワードが思い出せず、

もう少しでこのブログが半永久的に残るところだった。

然るべきタイミングでココに散らばっている黒歴史たちは成仏させようと思っているので、もう少しで地縛霊のようにインターネット上に縛られるところだった。

 

最後に更新してから、だいぶ月日が空いた。

 

その間、色んな変化があった。

特にこれよりも前に書いている記事では、

まだまだ何もわかっていない自分が、

とにかく周囲のすべてに対して憤りを感じているし、

そんなにも怒りの矛先にしていた社会に、

僕は住人として生き始めているし、

そうなってからもう少しで3年目を迎えそうである。

 

中学の時から知っている友達や、バイト先でお世話になった友達が

結婚して子供が出来たりしていて、

余りにもピンと来ていなかった「周りが結婚し始めて焦る」という気持ちが

なんとなくわかりはじめている。

(しかも最近は「結婚願望とかあるの?」とかよく聞かれてるし、

その都度、苦笑いしながら「あるよ」とは言ってる。

ただ、自分が誰かと共に生きるなんて現時点まったく想像がつかないのが本音。)

 

まあ、それはそれとして、

なんだか、あんまり喜ばしくない形で大人の階段を上っている感触がある。

 

閑話休題

 

社会の波に揉まれている。

揉まれているというか、飲まれて溺れている。の方が正しい表現かもしれない。

 

学生の時に、なんとなくなあなあにしていたことが、

見事に問題となって顕在化しているような格好だ。

 

コミュニケーションが苦手。

これは社会の住人として、非常に致命的。

割と気の合う仲間、

自分と波長を合わせてくれる仲間と楽しんだ学生時代と比べれば、

いまはほぼ9割くらい、気の合わない人たちと接する。

しかも、ビジネスライクに付き合うでは間に合わない仕事に準じているものだから、

これまた一層困ったものだ。

ふざけて「コミュ障です」みたいなことを言っていたこともあっただろうが、

あながち間違いじゃなかった。残念なことに。

 

正直、

いつしかはじまった「ひねくれ」がここまで尾を引くと思っていなかったし、

こんなにもハンディキャップになるとも思っていなかった。

 

 

次も、これまた残念な新発見。

社会人とにかく時間が無い。

 

このブログを見ての通り、

こんなにも無駄な自分の見解についてあれこれ思いを巡らすことが好きな、

好きなというか、癖である自分をもってして、

そんなことにあてがう時間が無さ過ぎる。

 

0:30くらいに仕事から帰って支度して寝て、

起きたらすぐに仕事へ行って。世の中の大人はすごくよくやっていると思う。

仕事以外のことを考える時間がほんの少しもないというのは、

かなり自分を試されている。

 

よく「今の仕事辞めればいいのに」とか、

「なんで今の仕事を続けているの?」とか聞かれる。

 

好きなのか?

 

いや、もう好きとかいう感情はほぼない。

だって、毎朝本当に仕事に行きたくないと2年間思い続けているから。

 

じゃあその原動力ってなにかというと、

きっと「いまの仕事を断念する(=辞める)というのが悔しいから」みたいなことが

近い回答な気がする。

 

なんで、こんなどうでもいいことに、

そんな感情が芽生えるかなー。。。と自分でも辟易としているが、

多分そういうこと。

 

くじける自分が悔しいというか。

サンクコストを放棄できない人って、

まともな人生にならないらしいということを何かで見かけた。

本当に人生の歩み方が下手だよな~と昔から思う。

 

 

僕がなかなかブログを書き綴れていない間、

自分の周りはものすごくいろいろな変化に富んでいた。

その中で自分だけが、自分の悪いところだけが、

断固として変わらずにいる。

 

なんで君だけ意固地になってまで、変わってくれないんだい?

ここからも引き続き、

自分の変えられない部分を見つめながら首をかしげていく。

 

さっき、久しぶりにランニングをしてきた。

自宅の近くに大きな公園があり、そこには舗装されたランニングコースがあって、僕は日が暮れた後の暗いそのランニングコースを走ることがそこそこ好きだ。日が暮れた後が。

その暗いランニングコースには、人があまりいない。夜になってまで走ろうなんて人がそんなにいないようだ。

僕は、逆にそんな環境が好きだ。自分以外に、人がいない時間が。


自分の中だけに集中できる時間が好きで、さらに運動して疲れてくると尚更、あれこれ考えを巡らす余裕が無くなってきて、より自分の中に集中できる。だから正直ランニングなんて大嫌いだけど、意外とやめられずにいる。

さっきも5周くらいしようと思って、走ってきた。
けれど、実際2周くらいでやめてしまった。

意気揚々と走りだした1周目、途中で他のランナーに追い抜かれたので負けじとペースを上げると、気づいた頃にはもうあと何周もできる体力はなく、敗北感とともに家路に着いた。

 

他人に惑わされることなく、着実に自分と向き合いながら、コツコツと邁進していく。
そんな人が偉大だということは、いついかなる時も教えられてきたし、そんな偉大な人は友人の中にもいるし、僕だってそんな人になれることを夢見ていたけれど。

でも、気づいたら面白いほどに正反対の人になっていた。

すぐに他人に惑わされるし、理想ばかりを浮かべ、ありのままの自分を直視できないし、8月31日が現れたら、8月31日の過ごし方をし続けてきた。

 

社会に足を踏み入れて2ヶ月が経つ。

名刺の渡し方、電話の受け方、メールの仕方、経費精算の仕方、お偉いさんとの接し方、色々わからないことだらけだけど、少なくともこの世界は先ほど掲げたような人には不向きだということだけはなんとなくわかってきている。

 

ここでは、確固たる自分を持ち、自己分析に余念がなく、地道な努力ができる人がど真ん中を歩くことが許される。そうじゃない人は、理想に思いを馳せてばかりで、気がつけば置いていかれ、焦って追いつこうとするけれど力及ばず、あとは何も成し遂げることなく去るだけだ。

 

僕が昨年、社会から受けていた評価を僕は信じていなかったけれど、
こんなにも早く答えが出るとなると。

 

「確固たる自分」「自分を受け入れられる自分」「地道に邁進できる自分」その全てを手に入れられないかな。

監視

先日、大学の友達とサッカーの大会に出た。

 

大会といっても、今回の僕らのように仲間で集まって組んだ数チームが集ってトーナメントを行うだけのいわゆる「お遊び」の範疇は超えないのだが。

 

コロナなどで大学に行く機会なども減ったので、友達と顔を合わせるのは久しぶりだった。なので、集まった時はサッカー云々よりもお互いそれぞれの近況などを持ち寄り、会話に花を咲かせ、サッカーそれ自体は二の次だった。

けれど、試合を進めるうちにいつの間にか優勝を争う状況になり、全員が自然と力が入り、高校時代などの部活ほどには及ばないものの、それに近づく勢いで、味方の惜しいシュートに肩を落とし、悔しさに歯を食いしばり、そしてゴールに沸いた。

 

目の前の状況に呼応して、自身の感情をコンマ0秒で世に送り出すという作業に興じたのはいつぶりだっただろうか。いつが最後だったかは定かではないが、少なくともこの「没頭」していた時間は久しぶりで、それでいて気持ちがよかった。

 

「自意識」というもう一人の自分の扱い方に手を焼いてかなりの年月になる。

 

いつしか僕にピッタリ付き纏うようになったこの自意識は、常に僕を監視し続け、僕の行動を制限し続ける。少しの隙も与えることがない彼に、僕は毎日辟易とするしかない。

 

しかし、たった一つだけ自意識に対抗できる術を見つけた。それが「没頭」なのだ。

 

僕が何かに没頭している時間だけは、自分を監視する自分が消え、ようやく自分が心の底から振る舞いたいように振る舞うことができる。
僕が信奉するお笑い芸人の若林正恭が、没頭が自意識を制すことを自著で綴っていたが、それを身を持って経験している。ただでさえ、あまり多くのことに興味を持たない自分が、この先どれだけ「没頭」できる時間を迎えることができるのかは心配ではあるが、人生で最も生きやすい時間を心待ちにしていようと思う。

 

僕は音楽のライブが好きだ。好きなアーティストの、好きな歌を、好きなだけ身体を揺り、好きなだけ声を出しながら、好きなだけ感情をぶつけることができる。数少ない没頭できる時間だ。

先日も意気揚々と好きなアーティストのライブに行った。まさかとは思ったが、自意識も一緒に入場ゲートをそのまま通り、開演とともに会場の灯りが消えても彼だけは消えてくれなかった。

ライブという空間に色々な制限を増やした新型コロナのせいなのかはわからない。

 

チケットは一人分しか買ってないはずなんだけどな。

 

偽装

就活を進めれば進めるほど矛盾とそれについての憤りを感じ、またそれが増してゆく。

普通の人は「そんなもんだよー」といい、それについてとやかく言わない。それが今後、社会人として生きてく上で賢いからだ。

 

とにかく自分は就活というシステムに適合できず悶々とする日が続く。

ラジオやテレビ、SNSのTLでたまに出てくる就活に関する記事も、敏感になっている五感が反応する。

 

先日、某大手企業の役員が就活に関して話しているのを見かけた。

インタビュアーが「面接では就活生のどんなところを見ますか?」とありきたりな質問を問うていた。すると自信満々に「やはり元気かどうかですよね!」と答えた。この手の答えも別に初めて見聞きしたものではないが、改めて愕然としてしまう。

 

詳しくは知らないが就活生は来たる面接に向け、色んなことを準備するはずだ。

「これを聞かれたらこう答えよう」とか「ここを突っ込まれたらこういう風に話を持って行きたいな」とか「この会社はこうだから、話の中でここを際立たせた方がいいのか」とか。

そこまでして臨んでいて、そんで就活生側が聞かれて欲しいこと、掘り下げて欲しいところをみすみす外しまくるくせに、最終的には元気だ?

正直に言って、馬鹿なんじゃないかと思ってしまう。

元気なことは確かに一緒に働く上で大切になってくるポイントではあるかもしれない。

が、まず言わせてもらいたいのは、

面接官のお前がそれほど元気じゃねぇじゃんか。

というところだ。

あんたがまあまあの感じなくせに、こちらはバカ明るく振る舞えというのは普通に言って異様すぎるだろう。

というか初対面の人に対してに明るく元気にペラペラと饒舌な奴が信用に値するかどうかも微妙な気がする。(そういう人種が蔓延りまくるから大して知りもしない人が大人数出席する飲み会とかも嫌いなのだが)

 

「就活って結局相性だからな〜」と知った口で言う奴らもいる。

落ちた者、落とした者、どちらが最初に言い始めたかは定かではないが、それは最悪の言い訳だ。

本当にその企業に行きたくて時間を割いたのちに相性という不確かなもので片付けるなど本人への冒涜に思えて仕方ない。

 

随分前に落とされたラジオ局を思い出した。

一緒に面接を受けた子が凄かった。ハキハキと明瞭に質問に答えていた。となりで圧倒されていた。「あぁこういう子が選ばれるんだろうなぁ」と思った。けれど僕は一部分だけひっかかった。

「学生時代ハンドボール部でキーパーをやっていたので、チームワークがあるし視野も広い」と言っていた。

キーパーをやっていても全然フィールドプレーヤーの心情を察せられないやつなんて山程いるし、キーパーをやってたから視野が広い?謎理論だ。

 

けれど面接官も満足気に頷いていた。

 

結局のところ、なにも成し遂げられていない自分がこれを書いたところでそれはもう嫉妬以外のなにものでもないことは百も、千も、万も承知だが、多少の脚色や全くの大嘘をあーでもないこーでもないと自分に納得させ、もしくは納得しないまでもうまく取り繕い、理路整然とそれっぽい論理を展開できる様子に気持ち悪さを感じるし、それが社会だと、大人になるということだとするならば、その舞台からは降ろさせて欲しいと願うばかりだ。

 

その願いがなかなか叶わないのだが。

 

 *1 

*1:この文章は昨年に書いたもので「鬱屈としてるなぁ」と思う反面、今もなんとなくこの気持ちはあるので載せることにしました