監視
先日、大学の友達とサッカーの大会に出た。
大会といっても、今回の僕らのように仲間で集まって組んだ数チームが集ってトーナメントを行うだけのいわゆる「お遊び」の範疇は超えないのだが。
コロナなどで大学に行く機会なども減ったので、友達と顔を合わせるのは久しぶりだった。なので、集まった時はサッカー云々よりもお互いそれぞれの近況などを持ち寄り、会話に花を咲かせ、サッカーそれ自体は二の次だった。
けれど、試合を進めるうちにいつの間にか優勝を争う状況になり、全員が自然と力が入り、高校時代などの部活ほどには及ばないものの、それに近づく勢いで、味方の惜しいシュートに肩を落とし、悔しさに歯を食いしばり、そしてゴールに沸いた。
目の前の状況に呼応して、自身の感情をコンマ0秒で世に送り出すという作業に興じたのはいつぶりだっただろうか。いつが最後だったかは定かではないが、少なくともこの「没頭」していた時間は久しぶりで、それでいて気持ちがよかった。
「自意識」というもう一人の自分の扱い方に手を焼いてかなりの年月になる。
いつしか僕にピッタリ付き纏うようになったこの自意識は、常に僕を監視し続け、僕の行動を制限し続ける。少しの隙も与えることがない彼に、僕は毎日辟易とするしかない。
しかし、たった一つだけ自意識に対抗できる術を見つけた。それが「没頭」なのだ。
僕が何かに没頭している時間だけは、自分を監視する自分が消え、ようやく自分が心の底から振る舞いたいように振る舞うことができる。
僕が信奉するお笑い芸人の若林正恭が、没頭が自意識を制すことを自著で綴っていたが、それを身を持って経験している。ただでさえ、あまり多くのことに興味を持たない自分が、この先どれだけ「没頭」できる時間を迎えることができるのかは心配ではあるが、人生で最も生きやすい時間を心待ちにしていようと思う。
僕は音楽のライブが好きだ。好きなアーティストの、好きな歌を、好きなだけ身体を揺り、好きなだけ声を出しながら、好きなだけ感情をぶつけることができる。数少ない没頭できる時間だ。
先日も意気揚々と好きなアーティストのライブに行った。まさかとは思ったが、自意識も一緒に入場ゲートをそのまま通り、開演とともに会場の灯りが消えても彼だけは消えてくれなかった。
ライブという空間に色々な制限を増やした新型コロナのせいなのかはわからない。
チケットは一人分しか買ってないはずなんだけどな。