絶賛不安定

不安定と一緒に、生きていく

曇天

自ら命を絶つことを選択する人たちがいる。

自分はその人たちでは無いから完全にその人の気持ちを理解することはできない。が、なんとなく死を選ぶ気持ちがわからなくもない。

年齢的に先輩の人たちのその選択については、からっきし分からない。けれど、20代の人が死を選ぶ理由はなんとなく、わかるかもしれない。

大人が楽しくなさそうだからだ。

夕方のニュースは、この先も生きていく予定の人にデメリットを紹介する番組のように思える。

少子高齢社会でこれからの人は不利を被るらしいし、なにかミスを犯したら晒しあげられる時代になってしまっている。

とにかく今のこの状況で明るい未来を想像しろってことの方が難しい。

その上でバカな大人は「社会は厳しい」とか「辛い」「甘くない」などと言ってくる。そんなことはお陰様でもう完全にインプットされた。だからもういらないんだよね、そんな言葉。

その代わりに「そうはいっても、なんだかんだ社会に出ると楽しいんだよね」と、言ってくれないものだろうか。

曇り空を投影しているような灰色のスーツを身に纏い、毎朝満員電車に揺られるごく普通のサラリーマンがそう話してくれればきっとボクらは死を選ばずにいられるのに。

度量

親がやけに嬉しそうだった。

僕の弟は今年、大学受験に臨んでいた。

大学受験と聞くと自分の経験を思い浮かべる。なんとなく医学部を志望して、2年浪人し時間とお金をたくさんかけそのレールを降りた経験だ。当然、医学部という場所は"なんとなく"目指すところではないのだが、なんとはなしに伝わってくる親からのプレッシャーと、なりゆきに身を任せ、医学部を目的地に置き、自分をなんとなく騙しながら、予想以上に険しかった現実との狭間に、ただただ苦しんだ。

話は戻るが、親が明らかに高揚していた。弟が医学部に合格したようだ。
現役で医学部に合格するなど、僕にとっては考えられない、とてつもなくすごいことだ。

ただ、僕が過去に挑み、屈した壁を超えてしまった弟に、素直に喜びきれない自分がいて、その事実に、自分の器の小ささにとても落胆している。

自分の家族の一人の努力が報われた。大変喜ばしいことではないか。それでも何か釈然としていない自分は、兄として失格じゃないかと思う。

僕は弟に自分と同じ苦しみを味わって欲しかったのだろうか。だとしたら、なんて低レベルな人間なのだろう。「弟が報われたんだ。喜ばしいことじゃないか」と自分に言い聞かしてる時点でアウトだ。

当人たちは知らないと思うが、自分が浪人している頃、父と母が僕の成績について悩んでいる会話を耳にした。僕に直接は言ってこなかったが、開業医である父はなんとなく、僕が医師になった暁にはクリニックを継がせたい意向を匂わせており、僕の医学部合格への道が険しくなるほど、表情が険しくなっていった。僕には直接言ってこなかったけれど、裏でそういう話がなされているのに気づいて、自分に落胆し、親への信用は消え去った。

親を絶望させる子供に価値はあるのか。そう考え始めたのが、うつ病を患うきっかけにもなった。

弟は親の望みを叶えた。僕にはできなかったことを成し遂げて見せたのだ。

当然、親は喜びに満ち溢れている。その様子を伺うほど、自分が成し遂げられなかった事実が反射して刺さる。

弟は父と同じ中高に通っており、今後は医学部生として、そして医師として生きてゆくのだろう。

そんな共通項の多い弟を父は我が子のように(実際に我が子だが)接してゆくだろう。母は医師という高尚な職に就くレールに乗った弟を誇りに思いながら生活していくのだろう。

僕はこのまま何も成し遂げられず、親の期待すら添えず続いて行くのだろう。

期待通りの弟と、それについて何かを思っている期待外れの兄。

自意識

横断歩道で信号が赤になった時に、僕は止まることができない。
道を間違えたと気づいた時、僕は止まることができない。

運転中の話をしているわけではない。

となると、いよいよ運動を司る脳のどこかがぶっ壊れた人の供述となってしまうが、そう判断する前にもう少し説明させて欲しい。

僕が横断歩道の方へ歩いている途中、信号が点滅し始めやがて赤に変わったとする。そこで僕は本当は横断歩道を渡りたかったのに、そこで止まらずにまるで横断する予定はなかったかのように違うルートを進んでいく。
当然、目的地からは離れて行く。
「横断歩道で信号が変わるのを待てばいいじゃん」
僕も自分にそう言いたい。が、これは僕の日々に自意識が立ちはだかる最たる例の一つだ。
渡りたかったのに信号が赤になり足止めを喰らう。これが僕にとってはまるで罠にはまったような感覚があるのだ。
駆け込み乗車しようとしてミスってる人を目撃するのと同じような感覚かもしれない。そのときに、その挑戦者がバツが悪そうにしてる感じがなんともマヌケな感じに見えてしまう。

そして、そのように見ている自分が、僕を見始めるとこのように横断歩道で赤に引っ掛かろうとしようものなら、違うルートをとって遠回りしてまでもその事実を遠ざけようとする。

ここまで読んでくれた人は、単に意味がわからないと思う。全く合理的ではないのもわかっている。が自意識という強キャラが立ちはだかるのだ。

道を間違えたときも同じかもしれない。
いきなり道を引き返したら「こいつミスったな」と他人に思われていそうで、間違いが発覚してもなかなか修正できないでいる。

ここで例を挙げることはできないが、人生の選択などにおいてもおそらくこんな低次元な自意識が働いていて自分のあらゆる可能性を閉ざしてきたのだと思う。

自意識という不自由なものを抱えるような脳のどこかがぶっ壊れた人の供述でした。

正当化シンドローム

僕は放っておくとすぐに自分を正当化しようとしてしまう。

間違いを指摘されてもすぐに認めることが出来ないし、あとは語り癖もある。SNSをみてタイムラインに映る誰かを羨んだときも、その裏には自分が同じように輝かしい瞬間を投稿できない自分をあーでもないこーでもないと正当化する作業に移行する。

ただ割と他の人の中でもこういう節がある人もいるのかなとも思っている。
例えば、それこそSNSや各種コメ欄なんかは正当化祭りだと思う。顔も名前も知らない人を相手にこれでもかと蹴落とす。いわゆるマウントの取り合いだ。

なぜ、そういった人は正当化をしないといけないのか。少し考えてみて思いついたのは、自分がこの世界において主役だと考えるからだということ。さすがに全員が、とは言い切れないものの多くの人が自分を、居てもいなくてもなんの支障もないモブキャラだとは考えないだろう。だからこそ自分は最後には、正解や勝利で終わらなければならないのだ。
例えば、RPGで主役が道端の敵キャラに殺められたとき、その途端に突如ゲームオーバーの画面になる。当然だが、ゲームオーバーなのはその主人公の視点だ。勇者が死を迎えても、隣にいる村人モブキャラにとってはゲームオーバーでもなんでもなく、「武器屋の前をうろつく」という人生はまだ続いてゆき、その横で勝手に勇者が敵に殺されたというだけである。

話が逸れたが、正当化の裏には自分は主人公だという意識が根底にある気がするということだ。

だから、外側から自分の方向へ不都合、不条理がもたらされると、それは到底許されない事態となる。したがって、お金を払って得たものに不具合があると、たちまち怒りを覚えクレームという行為に走る。有名人が何か問題を起こすと、自分は真面目に生きているのに、テレビに映るあの人が好き勝手やっているのは不条理だ!とSNSなどで叩き始める。

では自己の主人公視、つまりは正当化をどうして行ってしまうのか。

正当化をもっと柔らかく言い換えると「自分は正しい」と主張することだ。
「自分は正しい」と主張しなければいけない理由は?僕はその答えの一つに、「時間」の存在を挙げる。

「時間」は私たちが生きる、生活している、生息するこの世を定義する第一要因だと考えている。現在の社会においてはお金があれば、全てでは無いだろうが、そこそこの事柄は解決できる。お金があれば食べ物に困ることはないだろうし、住処に困ることはないだろうし、娯楽にも安易に出資できる。一定以上のことを求めると、お金だけでは不十分ということになるだろうが、最低限のことはお金である程度解決できると思っている。
すると、たちまち人間はそのお金を探す旅に出る。他人ができないこと、やらないことを、自分がやることでお金をもらう。そうして資本主義社会は成り立っているんだと思う。

では、どうして他人ができないこと、やらないことを、自分がやることでお金がもらえる仕組みになったのか。その理由が「時間」だと考える。人はとにかく「時間」に煽られている。哲学界では「ヒトは死にゆく存在」と語られていた気がするし、死への強制スクロールのステージに放り込まれてしまっている以上、はてなボックスを片っ端から突いている暇も、コインが出なくなるまでレンガブロックを悠長に叩いている暇もない。今、僕はカフェでアイスコーヒーを飲みながら、これを書いているが、このコーヒーは僕がお金を出すことで振る舞われている。この意味は、僕がコーヒーを作るために必要な知識、設備など準備に当たらなければならなかった時間をお金を持って引き換えているという構図と説明できる。
またもや脱線したが、つまり自分の欲望に従って、欲するものを全てメイドイン自分でやると、文字通り「日が暮れる」。それも1回では無く何日分もの日が暮れる。ただ死という期限は迫り来るので、じゃあ時間を割けない代わりに、お金を、ということだ。

これは一例だが、とにかくこの世は「時間」というルールに基づいている。だから、時間を無駄にするなんてありえないと、教育されてきたのだ。

だから、「自分が合っている」としないことには、それすなわち、「自分が費やしてきた時間、自分がなにかに対して信じながら過ごしてきた時間は無価値なもの」と置き換えざるをえなくなる。

強制スクロールの恐怖に怯えながら、それでも勇敢に進んできた道は間違いでしたとあったら、あとは迫り来る画面の枠に潰されて終了となる。それではマズすぎるから、できる限りボタンを押しまくり、天井や壁を叩きまくって突破口を探し、右方向へ歩みを進めなければならない。

ひたすらマリオを例にしているが、この行為が現実世界でいうところの自己の正当化、正しいとする行為と置き換えられるのではないだろうか。

日々の中でも度々、この「自己の正当化」を手放したいなぁと思う。けれど、防衛本能というか無意識にやはり自分を正当化したくなるし、自己を正当化しなくなったら、そういう価値観をなくしたらダメ人間になるのではないかとも思う。だから、この感覚を手放せない。

この正当化シンドロームを予防できる、そんな処方箋を用意している医師を紹介して欲しい。

強奪

最近、「斜に構えてる感じ」や「根暗」、「ひねくれてること」が市民権を得てしまってきている気がしている。

元来この「ひねくれ」は、社会から出た膿であるので、脚光を浴びるはずのない存在であるはずだった。けれども、芸人などが「ひねくれ」話をしたときは大抵どれも面白いので、少しずつ存在感を増してきて、ついに陽の民によって表舞台へ引っ張っられていった。
その結果、女優や可愛らしいアイドル、イケメンモデルなどが軽々しく「根暗」だとか「腐り」を一種の武器にし始めた。
最近は「ラジオ好き」を公言する人も増えてきたように感じる。ラジオなるマイナーメディアを愉しんでいることは本当は隠さなければいけない、誰かに見つかってはならないことなのだ。誰が決めたことでもないが、そういうものなのだ。そういうものだとする。今決めました。

いきなりこのような話を切り出したのにはわけがある。
別れや出会いが交差し始めるこの時期、初対面の人と親交を深める機会が増えてくる。ぼくはこの間、新しい仕事仲間とコミュニケーションをとる機会があった。当然ながら、ぼくは本当の自分を披露してしまったら場の雰囲気が悪化するはずなので、「"オン"自分」で行かなければならない。しかし、自己紹介がてらの雑談中に何を思ったか「自分は普段こんなに喋らないんですよ〜」などと「"オフ"自分」を垣間見せた。
僕は「ひねくれ」「根暗」「ネガティブ」「寡黙」このあたりの特性を装飾品にして見せびらかそうとしたのだ。
これらは元々は「決して他人には見つかってはならない」という注意書きが取扱説明書の一行目に書かれている。それを破った形になる。これに従わなくなれば、見せびらかしている"それ"はもう"それ"ではない別のものだ。別の言い方をすれば、「私、プライベートではめっちゃオジサンなんですよね〜」と自慢げに語っている女子だ。トイレに行くたびに義務であるかのように痰を吐き出す本物のオジサンや、その本物のオジサンみたいにマジでトイレに行くたびに便器に痰を吐き出すマジの"オジサン女子"からすれば、「そんなの全然オジサンじゃねーから!」と、こうなるのだ。

話が脱線してしまったが、要はイケイケのやつが「根暗だ」なんていっても、本当にそうな人からすればもうそれは全くの別のものなのだ。本人は本当にそうだと信じ込んでいる可能性もあるが、その人はちゃんと高次元の世界の人間なので、逆の意味でちゃんと身の程をわきまえてほしい。
先に商標登録された気分になる。
「自分普段はそこそこ暗いっすね・・・」
『へぇ〜、あ、でも乃木坂46のあの子もプライベートは暗いっていってた!』
残念ながらその子のそれとは訳が違うのだよ。

このように今まで自分が持っていた権利が、陽の民によって剥奪され、ぼくはまた居場所探しの旅に出なくてはならなくなるのだ。荷物をまとめよう。

同音同義

もう、本当に、こんなことを書くことになる自分を呪いたくなるのだが、

 

「デブ性」

 

だと思っていた。

 

冷え性」や「心配性」「飽き性」みたいな調子で「デブ性」。僕の頭の中で刊行されている辞書では「デブ性- あまり活動的でなく、それでいて怠惰な生活を送ってしまい不健康な肉体を得てしまうこと、またはその様子。」と書いてある。

 

ただ流通していた「でぶしょう」の正体は『出不精』であることが判明した。

 

「出不精」は"外出を面倒くさがって、始終家にいること"。僕の中で古来から伝わる「デブ性」とそこまで違わない。

外出を面倒くさがるやつなんて、代謝を促すためにわざわざ肉体にストレスを与える運動などに目も暮れるはずがない。だからたちまちでデブになる。ほら。

このように、「デブ性(そんな言葉はない)」と「出不精」。意味が微妙にリンクしてることが事態をさらに複雑なものにしている。「でぶしょう」からどちらの方向へも道が延びているのだから誤った選択をしてもおかしくはない。トラップだ。罠だ。自分らは誰かに騙されてる。

すぐに速報でテレビ画面の上側にテロップで出してやりたい。皆んなに知らせてあげたい。それか「先程『デブ性』としていましたが正しくは『出不精』でした。訂正してお詫び申し上げます。」という原稿を早くアナウンサーに読ませないと。

サガ

完璧主義で飽き性。

僕の側面を表すのにピッタリな言葉だなと思う。自分が未完成だと思っていることは本当は誰かに見せたくないし、「うーん、なんか先行きがなんとなく見えてきたなぁ」と思ったら僕の興味は躊躇なく姿を消してしまう。コツコツとしぶとく積み上げることが重宝される世界に僕を置き去りにして。

二つの要素として挙げたが、最近になって、どうやらこれらは表裏一体な関係性をもつ、1つのものなのではないかとも思えてきた。

僕は完璧主義ではあるが完璧ではない。そもそも「完璧」という曖昧な線引きであるのに、その幻想に向かおうとしているのだから。

だから「目指しているところはどんなところだろう?」とか「こんなのがあったりして!」と喋りながら歩く道中の方が断然楽しいのだ。

それだけに様子がある程度見えてくると、だんだんと心が青くなってくる。思いを巡らす余白が消えてくる。すると、気づけばもうそこに対する執着は無い。

果たして同じ思いを持つ同志はいるのだろうか?見当たらないようならば、こいつに自分の名前でもつけてやろう。「サトシ」…。「シライ」みたいな…。全くしっくりこないなぁ。もっと完璧な名前があるはず。